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レッドフォックス株式会社
代表取締役社長 別所宏恭 氏

1965年、兵庫県生まれ。横浜国立大学工学部中退。大学在学中に在宅CADのシステム開発に従事したことがきっかけとなって、89年横浜でレッドフォックス有限会社を設立。97年に本社を南青山に移転し、99年には株式会社に組織変更。近年は次世代の主流となるオープンシステムの開発に積極的に取り組んでおり、レガシー再生が間近とされる現在、その動向が注目を浴びている。


別所社長の一言
『腹いっぱい食べたいそれがスタートだった・・・』
『価値観の差が利潤になる』
『お客様は良い物だから買うのではない。良い物だと信じているから買うのだ。しかし良い物でなければ二度と買ってくれない。』


御社の事業内容を簡単に教えて下さい。
企業が事業運営で用いるコンピュータシステムをカスタムメイドで開発するのが主な事業です。


どのような少年時代でしたか?
ハッキリ言って病弱でした。少年時代は、通院と窓から外で遊ぶ友達を眺める日々を過ごしました。友達は本とNHKの教育テレビだけでした。その当時の性格は自我が強く、ただの問題児でしたね。そういえば、小学1年生になった時の最初の授業で先生からの「人間は卵から生まれますか?」との質問に「卵から生まれます」と言い張って先生に嫌われてしまった経験があります。私としては卵子と精子から子供は生まれるということを言いたかったのですが、小学1年生の中途半端な知識では新任教師とは言え、論破することは出来ませんでした。しかし後日ちゃんとリベンジしましたが(笑)

そんな私の人生の転機は小学3年生の時です。田舎の新興住宅地に引越ししたのですが、そこで出会った友達に初めて市立図書館の存在を教えてもらいました。そこには私が今まで見たこともなかった程多くの本がありました。しかし、貸し出しは1人1回4冊までと限りがありました。私の家からそこまで片道2時間かかりますので、そんなに頻繁には行けません。そこで私は兄と妹の名前で新たに図書カードを2枚作ることを思いつきました。その後はカードを3枚使って2週間に1度本を12冊借りに行く生活が始まり、中学を卒業するまで6年ほど続けました。
新興住宅地という町は極めて特殊な町です。同じ大きさの区画を買って、家を建てるのですから、そこの住民は同じ所得層の人ばかりで、子供のいる会社員と公務員がほとんどでした。その極めて狭い階層社会の中で、私の家は貧乏であると物心付いた時には知っていました。


昔から起業したいとお考えでしたか?また、起業までの経緯も教えて下さい。
そうですね。成長期になると、お腹が空きますよね。でもご飯が食べられない。家が貧乏なので、学校から空腹で家に帰って冷蔵庫を開けても中に何も入ってないんです。そんな状況で「腹いっぱい食べたい!」という欲求が凄く強くなりました。そこで普通の人なら『空腹=コックまたは板前になろう』と考えるかも知れませんが、外食経験のほとんど無い私にはそんな発想は浮かびません。その当時私が豪華な食事を『腹いっぱい』食べられたのは、友達の家の食卓でした。その友達の父親は大阪で町工場を経営していて、それを知ってから私の頭の中には『腹いっぱい食べる=社長になるしかない』という方程式が出来上がってしまい、高校生の時には進路は『起業』と決めていました。しかし親が地方公務員であり、知り合いにも商売人はいなかったので、商売とは無縁な生活でした。そこで考えたのが、自分の“血”を入れ替えることです。自分の考え方、価値観は地方公務員である父親の社会主義的な思想の影響を受けているはずなので、この自分の人格を捨てようと思いました。そこでまず過去の人脈を全て切ることから始めました。商売人になると決めた私にとって、社会主義の人脈は百害あって一利無し。そういうわけで、高校卒業後に鞄一つで上京して一人での生活を切り開きました。しかし、この時の生活は寂しかったです。明かりも無く、音も無くの生活を1年間過ごしました。実家にも起業するまで帰りませんでしたし、連絡も取りませんでした。ただ“血”を入れ替えることには成功しました。

その後、いろんなバイトしながらも起業しようとビジネスを探していたのですが、元々が「腹いっぱい食べたい!」というところから始まっているので、「特に何をやりたい」っていうのが無かったんですよ。目的は腹いっぱい食べることだけなので。しかし、いろんなバイトをしていく中で、システム開発だけが簡単に出来たので、それで起業しました。バイト中に既にフリーで仕事を貰っていましたし、コンピュータが好きでプログラムを作っても人より才能があり、また元手が掛からないので。ただ、今でもやり続けているのには理由があって、現在14兆円と市場が大きく今後も成長する業界である、競争が激しい、技術革新が速いなど、新参者が割り込む余地がある業界だからです。


起業しようと思った時に不安などはありませんでしたか?
何も無い人間の強みでしょうか。失うものは何も無かったので、不安は一切感じませんでした。余談ですが、18歳で一人暮らしを始めて1年が過ぎた時に、「これからの人生何が起こるか分からない、恐れていては何も挑戦できない、だから一度どん底まで落ちてみよう、そうすれば後は上がるだけだから。」と考え、最低の生活を求めて引っ越しました。4畳半一間風呂無し、トイレ共同、窓を開ければ隣のアパートという、当時の私に想像できる最低の暮らしでした。結局1年間暮らしましたが、そこでの生活のお陰で、起業時に恐怖は無かったですね。


起業してから軌道に乗るまでに約10年掛かったとのことですが、その間一番苦労したことは何ですか?
商人の考え方になることです。会社を興すのは簡単ですが、商売をするのは大変です。まずは『営業』を覚える必要がありました。個人事業でエンジニアとして働いていた頃は、黙っていても仕事はやってきて、お客様の方から依頼がある状態でした。最初のお客様である東芝様の子会社にしても苦労せずに口座を開いてもらいました。今考えるとあり得ないことですよね。学生でコネも無く、たった一人の資本金40万の有限会社に口座を開いてくれたのですから。というわけで、起業するまでは『営業』をしたことが無く、『営業』を学ばなくてはいけませんでした。


今後の目標を教えて下さい。
もちろんレッドフォックスを日本一のシステム開発の会社に育て上げることです。私達の業界は今が一番良い時期だと思います。ハードウェア中心からシステム中心のソリューションに移行し、ハードウェアの会社からシステム開発の会社へと、重点が移って来ています。その意味で成長分野の業界です。この時期に一気に拡大して日本一に持って行きたいと考えています。


経営者にとって必要なものを3つ教えて下さい。
愛と勇気と決断力です。


社長という立場は社内ではどういった役割があると思いますか。
決断を下すこと、最終責任を負うことです。社長の仕事はそれだけです。


あなたは突然、100万円を残し、地位、名誉、人脈も失ってしまいました。 残っているのは今までの培った知恵だけです。 この知恵を使い残った財産100万円で、3年以内に1億円以上の財産を築かなくてはなりません。あなたはこの3年間どうすごしますか?
とりあえず飲みに行きますね。まず楽しまないと。レッドフォックスを創業した時は元手ゼロですから、元手は100万あろうが10億あろうが変わらないと思うし、中途半端にあるよりは無い方が良いかなと思います。また、家で本を読んでいてもビジネスチャンスは見付けられないので、外に出る。外に出て人と会って人脈を作るなり、情報を得るなりする。そこからでないと、何も生まれないと思います。人脈と情報を得ることが何よりまず大事です。


もし学生時代に戻るとしたら、何をやっておくべきだったとお考えですか?
人脈を作るべきだったと思います。ライブドアの堀江さんは「大学は人脈とブランドだ!」と本に書いていますが、私自身も「大学はブランドだ」と考えていたので、一応入学してすぐ休学届けを出しましたが、人脈が大切だとは全く考えてませんでした。この辺が商人と公務員の違いでしょうね。「仕事は知識と能力だ!」と考えていては一生上には上がれません。


起業を志す学生へメッセージをお願いします。
私自身が苦労したのが、考え方が商人ではなかったことです。やはり企業の使命は利益を出すことですよね。利益を出すためには商人の考えにならなければいけないわけで、その為には『価値観の差が利潤になる』という考え方が一番重要です。また、最近私が気に入っているのは、自分の作った言葉で『お客様は良い物だから買うのではない。良い物だと信じているから買うのだ。しかし良い物でなければ二度と買ってくれない。』という言葉です。私みたいに商人の血が入っていない人はまずこの辺から理解して下さい。


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  >レッドフォックス株式会社 代表取締役社長 別所宏恭 氏

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